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いまこそ
赤城さかえ
俳論を文学評論の粋に高め
病苦と挫折の中で
社会と人間を詠み続けた男
赤城さかえ
俳句で文学を変える
俳句で社会を変える
コロナ禍のいまこそ俳人よ
赤城さかえに還ろう
句作中の赤城さかえ
千葉県野田市の清水公園にて
1957年5月3日(撮影・佐藤雀仙人)
赤城さかえの世界: ようこそ!
赤城さかえ の生涯
1908 ~ 1967

赤城さかえ(本名・藤村昌)は1908年、国文学者である藤村作の次男として広島県に生まれました。父の東大赴任のため上京、同じく東大に進学しますが民主活動に目覚め共産主義運動に参加、山本健吉や亀井勝一郎、原民喜らと地下活動に没頭します。しかし熱海事件により組織は壊滅、知多半島に逃亡し小栗喬太郎の世話になります。そして特高により転向、応召、北海道の炭鉱で結核に罹患し、逗子湘南サナトリウムに入所します。そこで俳句と出会い、師となる加藤楸邨の俳句結社「寒雷」に入会します。寒雷では古沢太穂、原子公平、森澄雄らと知り合い、生涯を寒雷同人(暖響作家)として全うします。
戦後まもなく、赤城さかえは岩波書店「文学」に寄稿したのをきっかけに、石橋辰之助から新俳句人連盟の機関誌「俳句人」の原稿を依頼されます。当時の俳句人は戦前の戦争協力者とされた俳人に対する「俳句戦犯裁判」や糾弾運動を続けていました。さかえはそんな団体の雑誌に評論『草田男の犬』を発表します。〈壮行や深雪に犬のみ腰をおとし〉という中村草田男の句に対し、日常となった戦争を冷静に見つめる哲学者たる一匹の犬を見出した草田男の批評精神を「短詩系文学の最高傑作」と讃えたさかえに対し、連盟の極左勢力は「戦犯の草田男を褒めるとは」「風景を詠んだに過ぎない」と反発します。純粋に文学として捉えるさ かえと、イデオロギーのために俳句を目的外利用する芝子丁種、古家榧夫らとの論戦は一年以上に及び、連盟だけでなく現代俳句協会、各結社、商業俳壇まで巻き込む一大論争となりました。


『草田男の犬』で一躍時の人となった赤城さかえですが、結核はさらに悪化、東京清瀬のサナトリウムに入所します。そこでさかえは石田波郷と同室となり大いに句作の影響を受けます。1954年の句集『浅利の唄』(書肆ユリイカ発行)はさかえ唯一の句集です。また金子兜太、佐藤鬼房、佐藤雀仙人など当時の若手俳人とも交流し、現代俳句協会の幹事にもなりました。そして藤田湘子からの依頼で三年間に渡り「馬酔木」に集大成となる『戦後俳句論争史』を連載します。しかし結核のみならず癌にも蝕まれたさかえの肉体は限界でした。腹部が腐って穴が開き、食べたものがそのまま出てくる生き地獄にもがき苦しみ、『戦後俳句論争史』の書籍化を見ること無く1967年、結腸癌で58歳の生涯を閉じました。死の翌年『戦後俳句論争史』刊行、絶句〈たんぽぽの黄を挿して愛ず一コップ〉。
赤城さかえの世界: 作品
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